意識をめぐる、私の長い散歩(2)本や言葉を、探し続けてきた

趣味・学び・生きがい

二十代半ばの頃、私は思うように人生を生きることができず、とても苦しい時期を過ごしていました。

そんなある日のこと。仕事帰りにふと立ち寄った書店で、一冊の本が目に留まりました。「シルバーバーチの霊訓」——精神世界と呼ばれる分野の本を、それまで読んだことはありませんでしたし、知識もありませんでした。けれど、なぜか気になって、その本を買って帰ったのです。

「やはり、そうだったのか」と思えた

読み始めると、その言葉たちは、すーっと心に沁み渡るように入ってきました。

私とは何なのか。自分だと思っているものは、身体を通して表現されている一面にすぎない。私たちは何を目的に生まれてくるのか。苦難とどう向き合えばよいのか——。

そこに書かれていたことが正しいのかどうか、証明はできません。ただ、読みながら私は、幼い頃から抱いていたあの感覚——身体と心は別のものではないか、という感覚——に、初めて「やはり、そうだったのか」と頷くことができたのです。長いあいだ心の奥に封印していたものに名前がついたような気がしました。

夢中になって、シリーズの本をすべて揃え、何度も繰り返し読み返しました。

その頃、「聖なる予言」という物語にも出会いました。人生の意義や魂の成長を、冒険物語の形で描いた本です。シンクロニシティ(意味のある偶然の一致)や、人と人のあいだで交わされるエネルギーについての記述は示唆に富んでいて、私の想像力を大きく広げてくれました。

そして、静かに離れていった

二十代後半から三十代前半にかけて、私はそうした本を読み続けました。

けれども、ある時ふと思ったのです。「修験者のように、世捨て人のように生きるのは、私としては違う」と。

本の世界に深く入り込むことと、日々の暮らしを生きることは別のことです。私には仕事があり、日常があり、その中で生きていきたいという思いがありました。そう気づいてから、精神世界の本からは自然に離れていきました。

不思議と未練はありませんでした。あの数年間で受け取ったものは、しっかりと心の中に残っていました。

十数年後、また問いが戻ってきた

それから十数年が経った、2008年のある時期のことです。

「何か大事なことが、思い出されていない」「何か大事なことを、忘れている」——そんな思いが、繰り返し心に浮かぶようになりました。何を忘れているのか自分でも分かりません。ただ、その感覚だけが、何度も何度も戻ってくるのです。

そしてまた、ふと立ち寄った書店でのこと。ある本のタイトルが目に留まり、手に取ってぱらぱらと眺めていると、終わりのほうのページに「地球の次元上昇」という言葉が目に入りました。

初めて見る言葉でした。何のことか分からない。けれど、なぜか強く心に引っかかる。家に帰ってからインターネットでその言葉を検索すると、次から次へと気になる記事が現れて、気がつけば、何か月も情報を追いかけ続けていました。

私の羅針盤は「温かさ」だった

こうした情報は、科学的に証明されているものではありません。玉石混交で、真実を述べているものがあるのかどうかさえ、定かではない世界です。

それでも私は、読みながら「これは違う」「これは信じられる」と、無意識のうちに選り分けていました。

その基準は、あくまでも自分の感覚でしかありません。けれど、今振り返るとはっきりしています。読んでいて「心が温かくなる」かどうか。「行間に慈愛を感じる」かどうか。それが、私の羅針盤でした。

不安や恐れをあおるもの、誰かを裁くようなものからは、自然と距離を置きました。心が温かくなるもの、優しさが行間からにじむもの——そういうものだけを、少しずつ、自分の中に取り込んでいったように思います。

すべては、今につながっている

あの探し続けた日々を、今の私はこう思っています。

全ては必然で、偶然はなかったのだと。二十代の苦しさも、書店での偶然の出会いも、のめり込んだ日々も、静かに離れた選択も、そして十数年後にまた戻ってきた問いも——無駄なものは、何一つありません。全てが必要な経験として、今につながっています。

もっとも、当時はそのように思えていたわけではありません。ただ必死に、心に浮かぶ問いを追いかけていただけでした。後から振り返って初めて、点と点が線になって見える。人生とは、そういうものなのかも知れません。

次回は、人生で一番辛かった時期のこと、そしてそこから心が軽くなっていった転機のお話をしたいと思います。