意識をめぐる、私の長い散歩(1)身体と心は、別のものかも知れない——幼い日の感覚から

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「意識が現実を創る」——そんな考え方に、私は長い時間をかけて、少しずつたどり着きました。

でも、これは誰かに勧めたい主張ではありません。30年以上をかけて歩いてきた、私自身の道のり。その出発点にあったのは、幼い頃のある不思議な感覚でした。

今日から数回にわたって、その道のりを、ゆっくりお話ししてみたいと思います。


幼少期の不思議な感覚

子どもの頃から、不思議な感覚がありました。

うまく言葉にできないのですが、「身体」と「心」は、どこか別のものではないか——そんなふうに感じていたのです。

自分の身体があって、その中に自分がいる。でも、その「自分」というものは、身体そのものとは少し違う気がする。身体は入れ物のようなもので、本当の自分は、もっと別のところにいる。頭の中で色々考えているはずなのに、その「心」は頭の中にはない、身体全体を包むように、身体の外に「意識」が存在している。そんな感覚が、理屈ではなく、ごく自然にありました。

だからでしょうか。人は亡くなっても、その人の「意識」のようなものは、どこかに残るのではないか——幼いなりに、そう思っていました。

もちろん、当時はそれを誰かに話すこともなく、証明できるものでもありません。ただ、自分の中では当たり前の感覚として、静かにそこにありました。

心の奥に封印されても消えることはなかった

大人になり、日々の暮らしに追われるうちに、そうした感覚を思い出すことは少なくなっていきました。仕事があり、家庭があり、目の前のことをこなしていく毎日。子どもの頃の不思議な感覚は、心の奥のほうに、いつの間にか封印されていったように思います。

けれど、完全に消えてしまったわけではありませんでした。

人生の折々で、ふとした瞬間に、あの感覚が顔を出すことがありました。大切な人を見送ったとき。静かに一人で過ごす夜。自然の中に身を置いたとき。「本当の自分とは、いったい何なのだろう」「私はどこから来てどこへ行くのだろう」という問いが、また心に浮かんでくるのです。

幼い日の感覚は、長い道のりの出発点だった

今振り返ると、あの幼い日の感覚は、その後の長い道のりの出発点だったのだと思います。

「心とは何か」「意識とは何か」——この問いを、私はその後、何十年もかけて、自分なりに探し続けることになりました。本を読み、言葉を探し、ときに立ち止まりながら。その道のりの果てに、今の私の”心の持ちよう”があります。

これから数回にわたって、その道のりを、少しずつお話ししてみたいと思います。

はじめにお伝えしておきたいのは、これは「こう考えるべきだ」という主張ではないということです。ただ、一人の人間が、長い時間をかけてたどってきた道を、静かにお話しするだけのもの。こういう考え方や感じ方もあるのだと、読んでくださる方がご自分の心と向き合うときに、ほんの少しだけ参考になることがもしあれば——そんな気持ちで綴っていきます。

次回は、答えを求めて本や言葉を探し続けた日々のことを、お話しします。