意識をめぐる、私の長い散歩(4・最終回)今思っていること

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四回にわたって続けてきた「意識をめぐる、私の長い散歩」も、今回で最終回です。

幼い日の不思議な感覚から始まり、本を探し続けた日々を経て、心が軽くなっていくまで。長い道のりの果てに、今の私が思っていることを、お話ししたいと思います。

これは答えでも主張でもありません。ただ、一人の人間の記録です。


ある時期から、私は人生にあまり悩まなくなりました。

とは言っても、ある日を境に突然そうなったわけではありません。ふと気づいたら「そういえば、最近悩んでいないな」という感じです。第3回で書いた玉ねぎの薄皮と同じで、変化はいつも、あとから分かるものなのかも知れません。

悩んでいた頃のことはよく覚えています。朝、目が覚めた瞬間から、そのことが頭に浮かんでくる。ヒーリング音楽を聴いたり、瞑想をしたりしないと落ち着かない。言いようのない不安感が、心から離れませんでした。

今はその感じがありません。朝起きて、ただ一日が始まる。それだけのことが、ずいぶん有り難く思えます。

「自分は本当はどうしたいのか」

何が変わったのだろうと考えてみると、一番大きいのは、ある問いを自分に向けるようになったことだと思います。

それは、何かを決めるとき、「自分は本当はどうしたいのか」と、自分自身に聞いてみる。本当はしたくないのに、誰かのため、何かのためにやってしまってはいないか——自分の心に深く意識を向けるようになりました。

長い間、私はこの問いを自分にしていませんでした。

組織で働いていた頃は、「全体のために少しぐらいの犠牲は仕方ない」という感覚が身についていました。我慢が常態化していたのだと思います。恐ろしいことにそれが常態化すると、我慢していること自体に気づかなくなる。自分は「本当はどうしたいのか」という発想が薄れてしまうのです。

退職してから「心のブロック解除」を学んだとき、「自分は本当はどうしたいのか?」という問いかけが、とても新鮮に感じられました。そのとき初めて、長い間、この問いを忘れていたことに気づいたのです。

自分を大切にすることは、誰かを犠牲にすることではありません。まず自分がどうしたいのかを大事に考える。そうしていると、心の奥からしたいことが少しずつ湧き上がってきて、自分の人生の方向のようなものが、だんだん見えてくる。私の場合はそのようにして、少しずつ自分の人生を取り戻し始めたような気がしました。

人はそれぞれ、それぞれの人生を

もうひとつ変わったのは、自分の感情との向き合い方です。

特にネガティブな感情が湧いてきたとき、「ああ、自分は今こう感じているんだな」と、少し離れたところから眺めるようにしています。感情をなくそうとするのではなく、飲み込まれないようにする。モニタリングする、という言い方が近いかもしれません。

こうしていると不思議なもので、他の人に対する見方も変わってきました。

価値観の合わない人に出会っても、「私はそういう考え方はしないけれど、人それぞれよね」と思えるようになったのです。以前なら、もっと引きずっていたと思います。みんな、それぞれの人生を、それぞれの価値観で生きている——そう自然に思えるようになって、人との境界線を、良い意味で保てるようになりました。

直感と、違和感

今、私が大切にしているのは、直感と違和感です。

これは、心の奥底から何度も聞こえてくる言葉のようなもので、私の中ではとても大きな指針になっています。

振り返れば、昔から直感に従って行動することが多かったように思います。特に人に対する第一印象は、今思うとよく当たっていました。そして、その直感を自分で否定して打ち消したときほど、後になって「やっぱり最初に感じたとおりだった」と思うことが多かったのです。

また、苦い記憶もあります。人から期待されて何かを頼まれたとき、「他者への貢献」という意識が違和感に勝ってしまい、引き受けたことがありました。しかし本当は気が進まなかったのに、そのことに自分で気づかなかった。結局、そのイベントが終わるまで、ずっと苦しかったのを覚えています。

では、直感と、ただの思い込みや不安を、どう見分けるのか。

正直なところ、これは難しいです。ただ、私なりに感じているのは、降りてくるタイミングが違うということです。直感は、意識がリラックスしているときにふっと訪れることが多い。一方で、思い込みや不安は、あれこれ考えすぎているときに湧き上がってくる気がします。

だからこそ、自分の心と言葉を一致させておくこと、自分がどう感じているのかにきちんと向き合うことが、大切なのだと思っています。

余談ですが、心理学の分野にも、直感を「無意識のうちに行われる高速な情報処理」と捉える考え方があるそうです。人の脳は、私たちが思う以上に多くのことを、意識の下で瞬時に処理している——そんな見方があると知ったとき少し面白く感じました。私が感覚的に思っていたことと、どこか似ていたからです。

私の羅針盤について

このシリーズの最初に、「意識が現実を創る」という言葉を一度だけ書きました。

これが、長い散歩の果てに私がたどり着いた考え方です。現実は意識の投影である。自分の意識のありようが、目の前の世界をつくっている——そんなふうに、今の私は感じています。

ただ、誤解のないように説明しておきたいことがあります。

これは私が、自分の人生の方向を見失わないために持っている、いわば内側の羅針盤のようなものです。他の誰かの状況を説明したり、まして人の苦しみの理由を測ったりするためのものではありません。そういう使い方をした瞬間に、この考えは、私の中で意味を失ってしまう気がします。

それに、全てが個人の意識で決まるわけでもないと思っています。

社会の空気、時代の流れ、人と人との間で生まれる大きな意識のうねり——集合意識と呼ばれるようなもの。そうした、自分一人の力ではどうにもならないものが、確かにあります。私自身、2020年頃にそれを痛いほど感じました。個人の意識だけですべてが決まるのなら、あんなに苦しむことはなかったはずですから。

だから私は、この考えをあくまで自分の内側だけで使っています。自分がどう在りたいか。自分は本当はどうしたいのか。その一点に意識を向けるために。

世界は、もっと柔らかいのかもしれない

それでも、一つだけ静かに思っていることがあります。

目の前に見えているこの世界は、本来もっと流動的で、柔らかいものなのではないか——ということです。

固まって動かないもののように見えても、実はそうではないのかもしれない。同じように未来は決められたものではなく、一人ひとりが自分の意識で幸せな未来を創っていける力を持っていると。

そして、人は本来、幸せに生きるために生まれてきているのだと思います。これは証明できることではありませんし、証明する必要も感じていません。ただ、そう思っていると、私は毎日を機嫌よく過ごせる。それで十分なのです。

散歩は続いていく

幼い日の不思議な感覚から始まったこの散歩は、ここまで来ました。

苦しかった二十代。夢中で本を読んだ日々。静かに離れた三十代。十数年後にまた戻ってきた問い。そして、崩れていった時期と、少しずつ軽くなっていった道のり。

こうして書き並べてみると、ずいぶん遠くまで歩いてきたものだと思います。けれど、この散歩に終わりはありません。意識をどう使うか——この問いは、これからもずっと続いていくのでしょう。

次はどのあたりを歩いてみたいか。言葉にするのは難しいのですが、今心に浮かんでいるのは「感謝」という言葉です。まだ上手く説明できません。いつか、それについても書ける日が来るかもしれません。

四回にわたってお付き合いくださり、ありがとうございました。

これは答えでも主張でもありません。ただ、一人の人間が、長い時間をかけて歩いてきた道の記録です。読んでくださったあなたにも、あなただけの散歩道があることでしょう。

それぞれの道が、どうか喜びに満ちたものでありますように。